言語化が好きな人の為のブログ

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自分の意見ってなんやねん

ブログやnoteを書いていると、たまに自分の意見が分からなくなる時がある。

 

何かを語ろうとする時、どうしても「世間の意見はどうなんだろう?」「正しいとされていることは何なんだろう?」といった類のことを調べてからでないと語れない自分がいるのだ。

 

本当はもっと自論を語れるレベルになりたいのだが、自分はそこまで辿り着けていないんじゃないかと感じてしまう。辿り着くったってどこに辿り着いたらいいんだか分からないが。

 

ひょっとしたら自分の意見がないだけなのでは?と思ったこともあるが、語ろうとするということは何か自分に刺さった部分があるから語りたいのであろう。

 

なぜ刺さったのか?それは何か自分の中に持論やら理念やら理想やらがあるからだ。

 

自分の信念にかすりもしないようなものを語ろうとは思わない。良いものでも悪いものでも信念にちょっとだけでも触れたものは何でも語りたい。そういうものである。

 

とはいえ、SNSや本を読んでいて素直に感じたこと、ここは間違っているなと直感的に思ったこと、その発想は新しいなと思ったこと、その都度カタチのないぼんやりとした意見は生まれてくるのだが、それを鮮明にしないまま「何が正しいか」を調べてしまう。(これが現代人ってやつですか?)

 

基本的にアウトプットの場所は基本的にブログやnoteにしているのだが、ブログやnoteを書くときは必ずベースとなる簡単な台本を作ってから書き出すようにしている。

 

「伝えたいことを3ブロックぐらいに分けて、1ブロック500文字程度にして、始まりと終わりを250文字ずつ書いたら2000文字になるな〜。」みたいな感じでいつも書いているのだが、自分の意見が分からなくなる原因はココにあるんじゃないか?と思ってもいる。

 

簡単に言うと、「型にハマっているから自分の意見が出せなくなる説」だ。

 

自分の意見ってもっと複雑で、取り止めもなくて、あっちこっちに矢印が飛んでるものなんじゃないか。それを強引に500×3+250×2=2000に当て嵌めていただけなんじゃないか。

 

そう考えると、自分の意見が分からない人の多くはこの困難にぶち当たっているのかもしれない。

 

国語のテストでも「この時の主人公の気持ちを80〜100文字程度で書きなさい」みたいな問題がしょっちゅう出ていたが、語りたきゃ何文字でもいいだろと言いたくなる。

 

なぜわざわざその文字数に収めなくてはいけないのか。小学生の頃からこんな感じなんだからそりゃあ自分の意見もちょうど良い文字数に収めなきゃと思っても無理はないのかもしれない。

 

ああ。バーっと書いていたら、何を話したらいいか収集がつかなくなってきた。けどそれで良いんだよな多分。

 

とりあえず今度からは、文章の書き方マニュアルを一回傍に置いてみることから始めよう。

 

やっぱ、文字数制限のない自分語りって楽しいね〜